深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義7. 人吉球磨地方の自然

7-7. 球磨川旅情

1. 球磨川の舟運

 球磨川は人吉球磨盆地をほぼ東西に流れ、川辺川をはじめとする幾つかの支流を併せながら八代海(不知火海)に注ぐ延長115㎞に及ぶ一級河川である。
球磨川は、最上川や富士川と並ぶ日本三大急流の一つと言われほどの急流が続き、かつては巨岩がひしめき水運に利用するのが難しかった。しかし、相良藩の御用商人であった林藤左衛門正盛という人が寛文2年(1662年)から私財を投げうって川底の開削事業に着手し、巨岩を取り除くなどして3年後には開削が完成し、川舟の航行が可能になった。その後の球磨川は外部との交通・物流の幹線となり、江戸時代には球磨郡湯前町と境をなす旧米良藩主も参勤交代でこの球磨川舟運を利用したといわれ、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献をした。人吉城内には正盛の功績を讃えた「林正盛翁頒徳碑」がある。

 明治40年頃の球磨川の水運風景の様子を今でもうかがい知ることができる。それは、先に紹介したが、現あさぎり町の深田西地区の球磨川右岸の「立岩」のところにある昔の船着場跡である。ここには井上微笑(いのうえ びしょう)の次のような句碑がある。

大根舟 続く炭舟 下り舟

 大根や木炭を満載した舟が深田橋をくぐり人吉や八代方面に下っていったのであろう。明治41年(1908年)の肥薩線開通後の昭和の初期でも、球磨川は物産の運搬手段として舟運が利用されていたようである。ちなみに、井上微笑は、慶応3年の福岡県生まれで、人吉市に居住し湯前町役場に勤務した俳人である。

  図1は、その頃の球磨川を航行する船の様子で、下り前方には数隻の帆船も航行している珍しい写真である。この写真は人吉在住の画家・書家である坂本福治さんから提供してもらったもので、写真には、「柳詰芳郎氏の兄さんの撮影、昭和4~5年」とある。おそらく、人吉・球磨地方では写真機など見たこともない人ばかりの頃の写真である。「柳詰」という姓は球磨村に多いから、撮影場所は球磨村あたりかも知れない。

舟運 舟運
図1. 昭和初期の球磨川舟運風景 (撮影:球磨村の柳詰芳郎氏の兄)
図2. 同じ頃の球磨川舟運風景 (出典:球磨川教材化資料集、第二集ふるさと八代球磨川)
図2は、国土交通省九州整備局の「球磨川下流域の土木治水史について」の中で紹介されている「球磨川教材化資料集、第二集ふるさと八代球磨川」に収められている写真である。この写真から往時の球磨川舟運がいかに物流の大動脈であったかが伺える。年代は、船団の帆の形状からして、前写真と同じ昭和4~5年頃のものと思われる。当時のこれらの舟は「平田舟」だったようである。平田舟というのは、平底の木造和船で、明治の頃から川沿いにある水田で刈り取った稲などの運搬や水田での往復に使用されていた「田舟」である。平底の田舟だから「平田舟」とよばれている。

 昭和7年(1932年)、与謝野寛・晶子夫妻は人吉を訪れ球磨川下りを楽しみ、幾首かの歌を詠んだ。そのなかに、暗い山国の月が迷わぬように、東から西へ道案内でもするかのように球磨川が流れている、といった意味の一首がある。

東より  球磨川西す  山国の  空なる月の  しるべの如く <与謝野晶子>


2. 球磨川の別名「ゆうばかわ」と「肥人(こまひと)

 球磨川は人吉球磨盆地をほぼ東西に流れる清流であり急流であることは「球磨人」であれば誰でも知っている。しかし、国土交通省の水管理・国土保全サイトによると、球磨川は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代には「木綿葉川ゆうばかわ」とか「夕葉川ゆうばがわ」とか呼ばれていたとのことである。この川に麻の葉の流れて来るのを見て、麻の葉が流れる川ということで木綿葉川(ゆうばかわ)あるいは結入川、夕葉川と呼ぶようになったという。しかし、現在とは異なり、人吉から八代までの川を「ゆうば川」といったとのことであり、球磨川は人吉より上流の川のことであったらしい。球磨中央高校(旧球磨商業高校)の北、錦町と相良村の間の球磨川にかかる橋は「木綿葉橋」である。

 「木綿葉」とか「夕葉」はどんな意味なのだろうか。八代市には「夕葉町」があり「夕葉橋」もある。球磨川は八代市内に入ると、流れを90度西に変え球磨川と前川に分かれる。その前川にかかる「白鷺橋」詰の北地区あたりが「夕葉町」である。また、国道3号線で球磨川にかかる橋が「夕葉橋」である。このように八代では「夕葉」は珍しくない。この「ゆうば」は漢字では「夕葉」、「木綿葉」と書く。木綿(もめん)ではなく、木綿(ゆう)とは、ウィキメディアによると、楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸したあと水にさらして脱色した繊維のこと、とある。しかし、飛鳥時代の歌人であり、万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌の中には木綿(ゆふ)の出てくる歌がある。万葉集 巻11(人麻呂歌集)2496がそれである。

肥人  額髪結在  染木綿  染心  我忘哉

 この漢文の読み方はこうである。肥人(こまひと)の 額髪(ぬかがみ)結へる 染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心 我れ忘れめや。意味は、球磨人(くまひと)が草木染めの麻で髪を結われていた珍しい姿が心に染みついて離れないように、あなたのことがどうしても忘れられない。この歌では、「木綿 :ゆふ」はのことであると解釈されている。

 もうひとつ、平安時代後期の公卿であった藤原定隆(ふじわら の さだたか)という人の和歌に、麻の木綿葉川という歌がある。この歌からも木綿葉は麻の葉であることがわかる。意味は、夏になると球磨川に麻の葉が流れてくるけど、上流では誰かが麻を使い禊(みそぎ)をしているのだろうか、ということだろう。

夏来れば   流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ 

 さて、さきほどの万葉集巻11に収められている歌、「肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉」において、冒頭の「肥人」は、「こまひと」と読む。漢字からして肥後の人、つまり熊本県の人であるらしい。オンライン百科事典のウィキペディアよると、「肥人」とは古代の球磨川辺りに住んでいた人々、つまり人吉球磨盆地や八代郡の旧上松求麻村や下松求麻村に住んでいた人達を指し、熊襲(くまそ)という説もある。しかも、この人たちは独自の文字を持っており、その文字のことを「肥人書」(くまびとのて)とか「肥人之字」と呼んでいたという。この文字は、阿比留文字(あびるもじ)とよばれる。対馬国の阿比留氏に伝わったといわれる文字であるから、そう呼ばれ、神代文字の一種とされているが真偽のほどは定かでない。神代文字とは、神話の時代、漢字の伝来以前に古代日本において使用されたとされる文字のことである。

 どんな文字かというと、その一例が図3に示すように、形はハングル文字に似ている阿比留文字である。刻んだ石碑が宮崎県都城市山之口町の円野(まとの)神社に建立されており、阿比留文字が存在したことは確かである。しかし使用された時期については諸説あり、古い方では538年頃、新しい方では1700年頃である。ちなみにハングル文字は朝鮮王朝の国王、世宗が1446年に制定したものである。ハングル文字がルーツであれば1700年説、阿比留文字が朝鮮のハングル文字の基になったという見解に立てば538年説となり、神代文字といえるが本当に球磨人の文字であったのかどうか分からない。

阿比留文字
図3. 阿比留文字(あびるもじ) 出典:ウィキペディア

3. 球磨は「求麻」 : 麻の栽培地であった!

 前にも述べたように、球磨は万葉の時代も「麻」に関わりのある地であり、球磨はかって「求麻」と書いている時期があった。これは昔、八代の川に川上から麻の葉が流れてきたので、上流に行くと人が麻を作っていると思った。そして麻を求めに人がやって来るようになったので、この地を「求麻」:「球磨」と呼ぶようになったといわれている。

 今から45年ほど前に発足した人吉球磨地方の郷土史研究会の名は、「求麻郷土研究会」、人吉城の別名は「球麻城」でもある。球磨地方の祝い唄「球磨の六調子」には、
    ♪の袴を後ろ低う前高こう ひっつり ひっぱり ひっからげて・・♪
と麻の袴(はかま)が出てくる。3世紀に書かれた魏志倭人伝にも倭人は麻(紵麻:ちょま)を栽培し、麻の衣服(貫頭衣)をまとっていたと書かれている。その前後頃の遺跡である吉野ヶ里の甕棺(かめかん)からは麻の布切れが発見されている。どうやら八代以南は麻の栽培地であって、有明海は麻の海上流通路であった可能性が高い。

 なぜなら、明治22年(1889年)頃の八代郡には「下松求麻(しもまつくまむら)」 という名の村があった。現在の八代市坂本町西部、深水、中谷、鮎帰(あゆがえり)にあたり、肥薩線の駅名でいうと坂本から段あたりまでの地域である。「上松求麻(うえまつくまむら)」も当然あった。現在の八代市坂本町坂本、荒瀬、葉木、鎌瀬、中津道、市之俣あたりである。肥薩線の駅名だと坂本、葉木、鎌瀬、瀬戸石あたりであり、球磨郡の球磨村や山江村に隣接する地域を含む。
このように、「球磨」は「求麻」であり麻の里であった。人吉球磨盆地では、麻の栽培がそんなに盛んだったのだろうか。
 図4は九州7県の麻の栽培面積の推移である。麻の生産は、昔から栃木県や長野県が有名であるが、九州では熊本県が昭和30年まで、最も多く生産されていた。そういえば、筆者も子供の頃、麻の葉をむしり、皮を剥く仕事を手伝った記憶がある。桑の木の皮を剥いたのもその頃である。

麻の栽培
図4. 九州7県の麻の栽培推移 出典:長野県大麻協会「大麻のあゆみ」1965

 ところで、麻とはどんな植物なのか。麻は一年生の草本であり、大麻(たいま)または大麻草(たいまそう)とも呼ばれる。
大麻(たいま)と言えば、日本では厳しく規制されている大麻(マリファナ)であるが、日本で栽培されてきたものは麻薬成分をほとんど含まない。麻は、図5に示すように、約4か月で4メートルの背丈になるほど成長が早く、茎などから繊維が得られ、織って布地となればさらっとした感触で、ひんやり感がある。実は食用となり、油も取れるなど利用価値が高い。

刈り取り 葉
図5. 麻の刈り取り 図6. 麻の葉
(出典:栃木県鹿沼市デジタルコミュニティ推進協議会サイト、他)

 先ほど書いた家事手伝いも麻の皮剥き作業であって懐かしい思い出であるが、筆者には読者に伝えておきたい用語がある。それは「麻留田」である。もういまどき、このような用語をつかって講義をする先生はいないと思われるが、筆者の若い頃の金属材料学という学問では、その教科書や講義の中で見たり聞いたりしたものである。「麻留田」は、漢字を直訳すると麻の葉っぱが水をはった田圃に留まった状態であるが、読み方は「マルテン」である。どんな意味かと言うと、鋼を焼き入れすると硬く、良く切れる刃先となるが、焼き入れ面を研磨して顕微鏡で拡大してみると、田圃の水たまりに麻の葉っぱが吹き寄せられ重なりあっている状態によく似た模様(組織)になっている。この組織変化はドイツのアドルフ・マルテンスという人が発見したので「マルテンサイト」と名付けられた。焼き入れたときの微細組織が重なり合った麻の葉に似ていることから、日本の有名な金属学者、本多 光太郎博士によって麻留田(マルテン)という漢字の当てられたというわけである。ナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた社会運動の敵性語排除時代でもあったが、麻留田はマルテンサイトにぴったりの当て字である。

 脱線してしまったが、麻は球磨地方に限らず、宮崎県の椎葉村でも栽培され、不土野(ふどの)峠を越えて水上村の江代地区へ運ばれていたとの記録もある。このように、人吉球磨地方は麻や桑やイ草の里を経て、今は全国3位の煙草産地であり、県下有数の茶どころとなっている。


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